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これまでの「お便りページ」:

2007年秋

ホームページ長い事御無沙汰してしまいました。

12月24日、クリスマスイヴだというのに青山マンダラで忘年コンサート。
14曲歌って2007年の歌い納めをしたという事もありましたが何よりも一大事だったのは木原光知子さんが突然亡くなった事で、半年近くたった今もこたえている次第です。

木原光知子さんことミミさんとは四十年来のつきあいでした。
岡山出身のミミさんのお母様は「東京のお母さんになってめんどうみてやって下さいね」と申されましたが、お母さんというよりお姉さん又はまるで年齢は違うのに親友のような間柄でした。ミミさんは私の水泳の先生でしたが、私はミミさんにシャンソンを教えた先生でした。
仕事の上でも私は大きなステージに立つ時は必ずミミさんに司会をお願いしていましたから月に二,三回は会っていました。

ミミさんは和食党、私はフレンチでしたから一緒の食事のとき中間を選んで大てい中華料理でした。家で食事の時はミミさんの好物、おいしいキムチを必ず用意しました。

倒れる前夜電話をくれて10月6日ミミさんの主催第11回ウーマンズスイムフェスティバルの話をしました。私も二回平泳ぎで出場させていただいた大きなフェスティバル。
日本全国から集った女性スイマーの数は3,500人、二日間約二万人の観客動員の下で行われました。
「私は初めて優勝を逃して了ってね、くやしいけれど来年は世界一をめざして泳ぐの」と云うのに「仕事少しひかえ目にしないと優勝はできないわよ」と答え「15日にゆっくり聞くわね」と電話を切りました。

15日はミミさんとそして仲良しの和田要子さん大谷けい子さんと一緒に中華料理のテーブルを囲む事になっていたからでした。

10月13日外出先から家へ帰る車中にミミさんのマネージャーFさんから電話がかかりました。「おしらせしなくてはならない事がおきたので」沈みこんだようなひくい声を聞いて「いやな話でないとよいけれど」と思わず答えました。

そしてその日仕事先の平塚でミミさんが倒れた事を知りました。「水泳教室のプールで突然意識を失って」と云うのに一瞬何の事かわからなくなり耳を疑って「誰が倒れたの」とききかえしました。くも膜下出血で手術は不可能、大変危険な状態と説明をされてそれこそ茫然自失となりました。

信じられない、まさか、そんな事がという気持と、くも膜下出血という言葉が重く心にのしかかりました。何故なら親しかった二人の友人がくも膜下出血で倒れ数日後に亡くなっているからでした。

平塚の病院にかけつけたときミミさんは点滴をうけていたせいかふっくらとつややかな顔色で、すやすやとうたた寝をしているみたいで今にも「じょうだん、じょうだん」と笑いながら起き上がってくれるのではないかとすら思って了う程でした。

18日未明昏睡状態のままミミさんは安らかに召されてゆきました。
それはそれは清らかな美しいお顔を拝してもまだ実感がともなわない不思議な気持ちでした。

11月19日築地本願寺で行われる社葬で私は弔辞を読むことになりました。
ミミさんがどんなにすばらしい女性であったかをしっかり語りたいと願って消しては書き書いては消し十日がかりで弔辞を書きました。

『弔辞をよんだシャンソン歌手の石井好子は「賢く優しく思いやりが深く美しくて優しいミミさんは私達の太陽でした。あなたにめぐり逢えまして沢山の幸せをいただきました。有りがとうございました」と号泣した』と芸能ニュースは書きました。

号泣はしませんでしたが泣くまいと心にちかい読み切ったものの、後半は流れてくる涙をおさえる事が出来ませんでした。大きな舞台で歌った後以上に一つの大切な事が終わって身も心も共にもぬけの殻のようになりました。

今年の1月ミミさんの特集がテレビで放映される事になり「ミミさんについて語ってほしい」との依頼がありました。ミミさんの死を悼みながらミミさんの歩んだ業績を讃え、ほほえみをたやさず人々をはげましなぐさめてくれた事について1時間15分熱意を込めて語りました。放映はわずか数十秒。「最近は少し疲れていた」という暗い言葉だけの放映でショックを受けました。

ミミさんの特集という事でしたが「挫折を経験した、更年期に苦しんだ」という全くミミさんらしからぬ事が取り上げられていたのには友人達と首をかしげました。
明るくいつも生き生きとして毎日を過ごしていたミミさんを傷つけた番組を見て、テレビの特ダネ特集とはこのようにゆがめられて作られるものなのかと改めて知らされ、とても悔しく残念に思いました。

ミミさんが亡くなって三ヶ月半,2月4日の節分を過ぎたあと東京にも珍しく大雪が降りました。テラスに降り積もる雪をみながら、新しい年を迎えたのだから私も新しい気持ちにならなくてはいけないとしみじみ思いました。ミミさんの死を嘆いてばかりいたらミミさんは悲しむ事と思います。

2月16日17日芝メルパルクホール「シャンソンフォリー」で歌い初めをして、私も2008年元気を出して歌ってゆきたいと願っています。

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アンリ・サルヴァドールは9月6日7日8日、東京ミッドタウンガーデンテラスにオープンしたビルボードライブに於いての3日間の引退公演を行った。

1917年元仏領ギアナに生まれた90才のクレオール歌手最後のコンサートであった。
私は1950年代パリで過ごしたのでその頃からサルヴァドールのファンであった。
混血の歌手が持つ独特のリズム感。ソフトな声で軽やかに歌うすべての歌がさわやかでこころよかった。

「クロパン・クロパン」のヒットで世に出たサルヴァドールは人気歌手であり笑いを沢山くれる名コメディアンであったが、長い事準主役的存在だった。
彼は年を重ねる毎に歌手としての本領を発揮し数々のヒット曲を残した。

5年前、サルヴァドール85才のコンサートはパリのパレ・デ・コングレ劇場で聞いた。
大変な人気でロングランのコンサートなのに満席だった。
ステージには約5段くらいの階段があり彼は軽々と階段を上がったり降りたりもして歌った。ジンを飲む酔っぱらいのコミックパントマイムも見事に演じた。「あの軽妙さ、クレオールだからでしょうね」と私はうらやましいため息をついた。

「パレ・デ・コングレをみたのなら引退公演はゆかない方がよいですよ」
シャンソン通の方が云った。
それでも出かけて行った。
85才の歌手である私の心の中にサルヴァドールの引退公演を聞かねばならないという気持ちがあった。

ビルボードライブの舞台には9人の楽団がずらっと並んだためサルヴァドールは客席から4、5段の階段を上らなくてはならなかった。
背の高いがっちりした青年に抱えられるようにしてステージに立ったサルヴァドールは明るい紺の上着、白のズボン。客席に笑いかけゆっくりと歩いた。

そしてステージの上におかれた椅子に直行、座って歌い始めた。声は太く低くなったような気がしたが軽やかさは失われず気持ちよい声で歌った。
リズムのある曲は立ち上がってリズムをとる努力をしながら歌った。悲劇的ではなかったが一生懸命といった感じが前へ出た。
「愛のシラキューズ」を歌っているとき、突然胸がえぐられるような哀しみにおそわれたのにとまどった。歌を聞いてそんな気持ちになったのは一体何年、いや何十年ぶりの事だろう。

ダミアのステージを聞いたのは1952年(50年前)パリ「ブッフ・デュ・ノール劇場」だった。ダミアのファンだったから始めから胸がどきどきしていたけれど、更に感動のあまり息がつまって苦しくなった。そして毎晩毎晩劇場の一番安い席でダミアの歌を聞いた。
「ダミアの歌は歌ではない。神にささげる祈りだ」と日記に記している。

サルヴァドールは椅子にかけてうつむいたまま淡々とレオ・フェレの「アヴェック・ル・タン(時の流れ)」を歌った。歌い終わったとき私は思わず「ブラボー」と叫んだ。
気持ちが高ぶっていたのに私の声は低くサルヴァドール迄届かなかったような気がする。

1950年サンフランシスコ留学生の頃ライヴでルイ・アームストロングを聞いた。
「ブラボー、ブラボー」と高い声で叫んでアームストロングに「あなたは今夜一番の好いお客だ」とほめられた。
ブラボーと叫んだのはその時だけだっただろうか。
いや、クシェイダ初来日の時ブラボーと二、三回叫んだ。すぐれた歌手なのにあまり知られていないために盛り上がらず拍手も小さかったから励ますためのブラボーだった。

サルヴァドールに向かってブラボーと叫んだのは、心の中からこみあげる熱い思いを堰き止める事ができなかったからだった。

90才サルヴァドールはたしかに老いたけれど、90才の彼が思いのすべてを込めて歌った「アヴェック・ル・タン」は眠っていた私の歌心をかき立ててくれた。

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