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アンリ・サルヴァドールは9月6日7日8日、東京ミッドタウンガーデンテラスにオープンしたビルボードライブに於いての3日間の引退公演を行った。

1917年元仏領ギアナに生まれた90才のクレオール歌手最後のコンサートであった。
私は1950年代パリで過ごしたのでその頃からサルヴァドールのファンであった。
混血の歌手が持つ独特のリズム感。ソフトな声で軽やかに歌うすべての歌がさわやかでこころよかった。

「クロパン・クロパン」のヒットで世に出たサルヴァドールは人気歌手であり笑いを沢山くれる名コメディアンであったが、長い事準主役的存在だった。
彼は年を重ねる毎に歌手としての本領を発揮し数々のヒット曲を残した。

5年前、サルヴァドール85才のコンサートはパリのパレ・デ・コングレ劇場で聞いた。
大変な人気でロングランのコンサートなのに満席だった。
ステージには約5段くらいの階段があり彼は軽々と階段を上がったり降りたりもして歌った。ジンを飲む酔っぱらいのコミックパントマイムも見事に演じた。「あの軽妙さ、クレオールだからでしょうね」と私はうらやましいため息をついた。

「パレ・デ・コングレをみたのなら引退公演はゆかない方がよいですよ」
シャンソン通の方が云った。
それでも出かけて行った。
85才の歌手である私の心の中にサルヴァドールの引退公演を聞かねばならないという気持ちがあった。

ビルボードライブの舞台には9人の楽団がずらっと並んだためサルヴァドールは客席から4、5段の階段を上らなくてはならなかった。
背の高いがっちりした青年に抱えられるようにしてステージに立ったサルヴァドールは明るい紺の上着、白のズボン。客席に笑いかけゆっくりと歩いた。

そしてステージの上におかれた椅子に直行、座って歌い始めた。声は太く低くなったような気がしたが軽やかさは失われず気持ちよい声で歌った。
リズムのある曲は立ち上がってリズムをとる努力をしながら歌った。悲劇的ではなかったが一生懸命といった感じが前へ出た。
「愛のシラキューズ」を歌っているとき、突然胸がえぐられるような哀しみにおそわれたのにとまどった。歌を聞いてそんな気持ちになったのは一体何年、いや何十年ぶりの事だろう。

ダミアのステージを聞いたのは1952年(50年前)パリ「ブッフ・デュ・ノール劇場」だった。ダミアのファンだったから始めから胸がどきどきしていたけれど、更に感動のあまり息がつまって苦しくなった。そして毎晩毎晩劇場の一番安い席でダミアの歌を聞いた。
「ダミアの歌は歌ではない。神にささげる祈りだ」と日記に記している。

サルヴァドールは椅子にかけてうつむいたまま淡々とレオ・フェレの「アヴェック・ル・タン(時の流れ)」を歌った。歌い終わったとき私は思わず「ブラボー」と叫んだ。
気持ちが高ぶっていたのに私の声は低くサルヴァドール迄届かなかったような気がする。

1950年サンフランシスコ留学生の頃ライヴでルイ・アームストロングを聞いた。
「ブラボー、ブラボー」と高い声で叫んでアームストロングに「あなたは今夜一番の好いお客だ」とほめられた。
ブラボーと叫んだのはその時だけだっただろうか。
いや、クシェイダ初来日の時ブラボーと二、三回叫んだ。すぐれた歌手なのにあまり知られていないために盛り上がらず拍手も小さかったから励ますためのブラボーだった。

サルヴァドールに向かってブラボーと叫んだのは、心の中からこみあげる熱い思いを堰き止める事ができなかったからだった。

90才サルヴァドールはたしかに老いたけれど、90才の彼が思いのすべてを込めて歌った「アヴェック・ル・タン」は眠っていた私の歌心をかき立ててくれた。

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パリ祭が終わると夏が終わったような気がするが、甲子園の高校野球が終わったら暑さはおさまらないけれどその中に秋が感じられる。

東京のパリ祭は今年で45回、地方のパリ祭も神戸・名古屋を始め6回歌ったら疲れが身に沁みた。去年は大丈夫だったから今年も、と思っても年はとってゆくのだから考えなくてはいけないと反省した。

八月はゆっくり休んで甲子園で行われた高校野球決勝戦もしっかりと見た。若い選手達が全身全力で挑む試合に手に汗を握った毎日だった。どちらか応援しているわけではないから、すべての試合に熱中して見入るので力が入った。

それでも原爆という事実もあるから何となく広島に勝たせたいという思いはあったかもしれない。4点入れ好調だったのに、佐賀北に5点入れられ逆転の結果となった。
両者といわず他のどの試合も酷暑の中皆よく戦ったのだから悔いはないだろう。

高校野球の最中に16才の高校生が祖父を惨殺した記事が報じられた。
大切に育てられたのだろうに同じ16才でも若さに輝く選手達と殺人を犯す高校生の心の中にどんな違いがあったのだろう。
自分の若さを大切にしない若者を可哀そうに思う。

高校野球を見ていてはっとしたのは試合終了を告げるサイレンの音だった。あのサイレンは敗戦が近づき本土上陸が噂され始めた頃毎日聞いた空襲警報と同じ音ではないだろうか。

サイレンが鳴る。雲一つない夏の青空の下私達は防空頭巾をかぶり大切なものをかかえて防空壕にかけこんだ。防空壕が近くにない人は押し入れに身をかくした。

警報が鳴りひびいてから数時間、いや半日過ぎた頃空襲警報解除のサイレンが鳴った。その間に何十万人の人々が亡くなったのだ。

優勝校の選手達が校歌を歌うとき口の合っている人は少なかった。
おぼえていないのであろう。勿論嬉しそうではあったが、知らないおぼえていない歌詞をごまかしながら歌った感があった。勝利に高なる若者の心が満身にあふれるような高らかな声で歌ってほしかった。

ホームページ2回に渡って高校野球の事ばかり書いていましたが、私は9月22日ベルエポック出演、10月3日にはシャミオールで小さい独唱会を開くので今は新しいレパートリーにとりくんでいます。

今までと違ったシャンソンをお聞かせしたいと思っています。     

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7月はパリ祭の月。
地方公演を加え8回のコンサートで歌ったのにはいささかこたえました。

8月に入り猛暑の中で8月という月は心の整理がむづかしい重い月だとしみじみ思いました。6日。広島に原爆が落ちても当時は原爆とは分からず、ニュースも「新しい大型爆弾、広島に投下」とあり「白い服を着てふせごう」みたいな記事もありました。

原爆は9日長崎にも投下され15日敗戦となりました。
天皇陛下の玉音放送「終戦の詔勅」は父母、姉と共に疎開先の大磯で聞きました。
「死なないですんだ」という気持ちもありましたが「一体何だったの、この戦争は」というむなしさで胸が一杯でした。

重い月と言う中に12日の日航機墜落事故というのもあります。

御巣鷹で亡くなった坂本九さんとはNHKテレビでの「スタジオ101」の始まったとき「デュエット」を歌いました。坂本九さんと二人で歌ったのはそれが始めてで最後だったので記憶に生々しいですし、友人要子さんのご主人(和田浩太郎氏・和田式ダイエット)も同乗されていて亡くなりました。

三人の子供と残された要子さんは現在ご主人の仕事を受け継がれ健闘されていますが、心に残された傷はたとえようもないほどの深さ。

お察しします。

ゆっくり休養しながら当時のことを色々と思い出し切ない気持ちでしたが、甲子園高校野球がすがすがしい風を送ってくれました。
小学校の同級生だった山崎喜暉さんが東大の野球選手だったため、私は戦前から学生野球のファンです。

久しぶりに毎日高校野球を見て感激し感動しました。酷暑の中で闘う若い選手達、その仕事に携わるアナウンサー、解説者が延長戦の中で汗まみれになりながら、しっかりネクタイを締めているのに目を見張りました。

直後国会では冷房の中でノーネクタイの方々がまるで×××又は×××の一員みたいにだらしない姿でテレビに写りました。

せめてネクタイをしっかりしめれば国際会議に出席しても何とか様になるでしょうに。ノーネクタイでは出席拒否されるのではないかと余計なことかもしれませんが心配です。

私の小さなニュース、8月4日私は満85才となりました。
 

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一年で一番美しい桜の季節に入ったのに、能登半島の地震を思うと心が重い。
新潟県中越地震の時もそうだったが「何故、何故」と問いかけたい気持ちだ。
つましく家を守って平和に暮らしていた人々の上に何故不幸が襲うのかと恨めしい。

「神も仏もあるものか」という言葉があるけれど、地震の被害から逃れて避難した上、更に余震260回以上、震度5弱3回とはてしなく試練が重なる。

新潟の時もそうだったが地震の影響なのか二、三日後には必ず雨が降るのだ。
能登の春はまだ浅い。みぞれまじりの雨、避難所やテントで暮らしている人々は疲れ切っている。

76才と82才の二人の方は医療スタッフが不調に気付いて病院に運ばれたとある。
体調をくづしてもじっとがまんしていたその二人の方はがまん強い日本人の典型だ。

もしアメリカやヨーロッパでこのような地震が起き、やむなく避難所にとじこめられたらパニックも起きるだろうに、日本の老人は一夜明けた朝、地元の人のさしいれた一個のおにぎりをおしいただいて「これで気持ちも落ちつきました」とほほえんだ。

新潟の時もそうだった。山の奥に住む老女の元へ自衛隊員が一枚の毛布を届けてきた。地震がおきて2、3日たっていた。不安の中でおびえていただろうにその方は、それはそれは優しい笑顔で「ありがとう。助かります」と云って毛布を胸に抱いて深々と頭をさげた。

「こんな時こそ力をあわせなくては」「皆で助けあって生きてゆきます」と云う言葉に、日本人の強さをあらためて知った。苦しい中でも辛い時でも日本人はそれに耐えて感謝の気持ちを忘れず笑顔でのりこえてきたのだ。

日本は美しい国なのだ。
被害にあわれた方々から、私は清らかな力を一杯いただきはげまされました。

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今年の五月はきらきらと輝くように美しくさわざかな日が多く名残惜しいかったのは私が年をとったせいだろうか。
「美しい日ね」「五月は美しいね」そんな言葉を何度も云った。

五月は好きだ。寒い冬が終わって春が過ぎて夏に入る前の五月が好きだ。そして必ず、

Im wunderschönen Monat Mai

と口ずさむ、何回も。

「美しい五月になって
 すべての蕾がひらくときに
 私の胸にも 恋がもえいでた
 美しい五月になって
 すべての鳥がうたうときに
 私は胸の思いを あの人にうちあけた」
                 「美しい五月」 深田甫訳

ハイネの詩・シューマン作曲の「詩人の恋」16曲、その1曲目に「「美しい五月」がある。音楽学校声楽専科ではドイツ歌曲をドイツ人の先生から習った。

戦後ジャズ歌手となりシャンソン歌手になった今の私にとって「美しい五月」一曲だけがドイツ歌曲と私をつないでいるようだ。

この五月私はシャンソンのレコーディングをしていたので緊張した月でもあった。
自分が古いせいか古いシャンソンに心をひかれる。ダミアが歌った「想い出」「人の気も知らないで」「かもめ」

日本では知られていないアンドレ・グラシーの胸に沁みいる哀しいシャンソン「泉のほとり」「ノスタルジー」
そして「詩人の恋」ではなく「詩人の魂」もレコーディングした。
詩人が死んで長い事長い事時がすぎたが詩人の残した歌を人々は今でも口づさんでいると歌うシャルル・トルネの名曲である。

久しぶりに「詩人の魂」を歌いながら「美しい五月」という歌曲は私にとってまるで詩人の魂みたいだと思ったりした。大好きな五月は足早にすぎ去って了ったがこれからはパリ祭の季節になる。

大きなステージで後輩達と思う存分シャンソンを歌う日にしようと思い立って開いたパリ祭コンサートは今年で45回目を迎える。

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