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(2007年5月)
 終戦直後私はジャズ歌手としてデビューした。         
「渡辺弘とスターダスターズ」という楽団で歌っていた頃、楽団のピアニスト松井英子さんと親しくなった。
その頃、私は前夫と別れ小さい一軒家に住んでいたが、或日突然英子ちゃんが幼い二人の子供をつれ、暴力亭主の元からのがれ家出して私の家に飛び込んで来た。数えてみれば60年前の事である。

英子ちゃんはその後アメリカ人と結婚してロサンジェルスに住んだ。
夫に先立たれた英子ちゃんは89才。月に一、二回電話をかけてくれる。「日本にゆくわよ、会いにゆくわよ」と云いつづけているのに体調はあまりよくないらしい。「私が会いにゆくわ」と答えているうちに久しぶりにアメリカへ行ってみようと思い立った。

最近のラスベガスのショーは大評判と聞いていたから、英子ちゃん訪問とラスベガスへの旅となった。
英子ちゃんは私のためにロサンジェルス空港に近い日本人が経営しているホテルの予約をとってくれた。
「私も泊まるの」「じゃ一晩中しゃべられるね」と喜んだけれど、時差のせいか、再会を祝してしっかりと飲んだ白ワインのせいか、ねむくてねむくて10時頃お開きとなって了った。
でも会えて嬉しかった。60年の昔に戻った二日間は忘れ得ぬ思い出として心に残る事だろう。

ラスベガスには数年前に訪れていたが、その頃よりすべてが数倍も大きくなった。
ホテルもふえ大きなホテルの中には300席もある大劇場が建ち、プレイするカジノの人波はめまぐるしく、ラスベガスが今盛んになっている事が目の当たりに感じられた。

一週間滞在した中で人気絶大の「オー」は修理中で見られなかったが「カー」「ル・レーヴ」ビートルズストーリーの「ラヴ」他毎晩見に行った。
どのショーも満員、当日券の窓口は長蛇の列。歌手主演の「セリーヌ・ディオンショー」(映画「タイタニック」の主題歌を歌ったカナダ人の歌手)がその中でも群をぬいてすばらしかったのは、単なる歌謡ショーではなく大規模な舞台装置、すぐれた演出、よりによった一流の出演者にささえられた感動的な構成だったからだろう。

「アメリカってすごい」と思わせるのは、その舞台だけでなくまわりのすべての雰囲気、人々がかもしだすエネルギーだった。
1950年留学生としてサンフランシスコに渡った私にはその頃より更に更に強いアメリカを感じた。

ラスベガスには太っている人が多かった。太りすぎて歩けなくて車椅子でショーを見ているおばさんもいた。
何しろ食べるのだ。上等なレストランはそれ程でもないが、キャフェテリアでランチとなればハンバーガー1つにしても日本の3倍の大きさで、フライドポテトの山は4人でも食べきれぬ量だ。
アメリカの食事はまずいと云われてきたが、ファーストフードは研究され尽くしたおかげかおいしい味になっていた。フライドポテトは長い細切りでカリカリと揚がり、フランスの高級レストランの味にも劣らなかった。

おいしいから食べる。そして太る。「アメリカのかかえている問題は肥満だ」と書いた記事を読んだ事があるが日本にも肥満児がふえた事は問題だと思う。

新谷弘実ドクターは、日本の青少年のジュースの飲み過ぎを大きな問題とされ「今の青少年は清涼飲料水を一日に5本飲んでいると言います。1本につき30グラムの砂糖が入っていますから一日150グラム。こんなに食べたら哺乳動物は頭が狂ってしまうと言われている量です。それで血液のバランスが崩れて『キレる』精神状態になる例が多いと思います」と云われている。

飢餓状態の中、水もなく飢え死にする難民もいるのに食べ過ぎて病気の人もいる。
二十一世紀は思いもよらない方向に向かっているようで何かしら恐ろしくもある。

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恒例の難民救済チャリティーコンサートも12回目を迎え、4月5日6日朝日ホールに於いて無事終わりました。両夜のプログラム>を掲載させていただきます。

このコンサートは、シャンソン歌手ではなく別の道をきわめている方々にシャンソンを歌う、又は演奏していただくという主旨です。

イラン・イラクを始め、祖国の土地をうばわれ苦しい生活を強いられている難民の数は増える一方で、イラク周辺の難民は400万人を超えたと報じられています。難民救済のため御協力下さっている出演者の方々、御来場の皆様に心から感謝いたしております。今年も発売3時間で切符も売り切れました上、大変御好評をいただき嬉しゅうございました。

幕開きは鳥居ユキさんの御厚意により十数人のモデルさんが参加して、美しくゴージャスなファッションショーを見せて下さいました。
落語の柳家小三治師匠はフランス語でジャック・ブレルの「行かないで」を語って下さいました。

有森裕子さんは汗をぐっしょりかかれ、マラソンよりきつかったと云われましたが「時は過ぎゆく」を情感をこめてシャンソン歌手のように歌われました。

毎回御出演のピーコさん、木原光知子さんの上達ぶりもめざましく、3回目御出演の聖路加国際病院名誉院長日野原重明先生は勿論、天満敦子さんのストラディヴァリウスの「聞かせてよ愛の言葉を」の音色に拍手が鳴りやみませんでした。

すべての出演者の方々が見事にシャンソンを歌い上げて下さる感動的な2日間でございました。

次は7月7日、8日のパリ祭に向かってがんばります。
御声援よろしくお願い申し上げます。

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一年で一番美しい桜の季節に入ったのに、能登半島の地震を思うと心が重い。
新潟県中越地震の時もそうだったが「何故、何故」と問いかけたい気持ちだ。
つましく家を守って平和に暮らしていた人々の上に何故不幸が襲うのかと恨めしい。

「神も仏もあるものか」という言葉があるけれど、地震の被害から逃れて避難した上、更に余震260回以上、震度5弱3回とはてしなく試練が重なる。

新潟の時もそうだったが地震の影響なのか二、三日後には必ず雨が降るのだ。能登の春はまだ浅い。みぞれまじりの雨、避難所やテントで暮らしている人々は疲れ切っている。

76才と82才の二人の方は医療スタッフが不調に気付いて病院に運ばれたとある。
体調をくづしてもじっとがまんしていたその二人の方はがまん強い日本人の典型だ。

もしアメリカやヨーロッパでこのような地震が起き、やむなく避難所にとじこめられたらパニックも起きるだろうに、日本の老人は一夜明けた朝、地元の人のさしいれた一個のおにぎりをおしいただいて「これで気持ちも落ちつきました」とほほえんだ。

新潟の時もそうだった。山の奥に住む老女の元へ自衛隊員が一枚の毛布を届けてきた。地震がおきて2、3日たっていた。不安の中でおびえていただろうにその方は、それはそれは優しい笑顔で「ありがとう。助かります」と云って毛布を胸に抱いて深々と頭をさげた。

「こんな時こそ力をあわせなくては」「皆で助けあって生きてゆきます」と云う言葉に、日本人の強さをあらためて知った。苦しい中でも辛い時でも日本人はそれに耐えて感謝の気持ちを忘れず笑顔でのりこえてきたのだ。

日本は美しい国なのだ。

被害にあわれた方々から、私は清らかな力を一杯いただきはげまされました。

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御無沙汰して了いました。

とても素敵な84.5 YOSHIKO ISHII
BIRTHDAY?PARTYへのお誘い。

拝啓
愛しの石井好子さんが2006年8月4日に84才になられました。
「8月4日で84」そう、お気づきでしょう。
人生で一度だけ、すべてのひとが味わえるとは限らない、素敵な数字の巡りあわせです。
「なんとも素晴らしい!」と気づいたところで8月4日はとうに過ぎておりました。
それではと、気を取り直して正真正銘の84才、半年後の2007年2月4日の夕べに皆様と祝杯をあげさせていただきたく下記のようにご案内を申し上げます。ちなみに、好子さんは、この日で84.5才になられます」

このようなおしらせの元で2月4日「84.5お祝いの会」を世話人の木原光知子、大谷けい子、和田要子さん達が開いて下さいました。
永六輔さんから開会の御挨拶をいただき、芦野宏さんが「人生に乾杯」と歌って下さって乾杯をしました。

夕食が始まりそろそろ終わる頃、パリの街角で出会って以来五十五年の友である雑賀淑子さんの琵琶と語りがあり、そのあと私と弟の公一郎は昔、学生だった頃良く読んだ三好達治の「乳母車」中原中也「サーカス」の一部を二人で朗読しました。

コーヒーの出る頃スロージャズ NOW IS THE HOUR「お別れの時がきました」を元帝国ホテル社長の犬丸一郎さん、弟の公一郎がペギー葉山さんに助けられて歌いました。
「新しく結成されたトリオです」とペギーさんが皆を笑わせましておひらきとなりました。

 その数日後、私は雪灯篭まつり三十周年で米沢に招かれ講演。そしてシャンソンも歌いました。その日は全く雪がなくて雨がしとしとと降り地球温暖化を目にした気分でした。
白布温泉に泊まり、久しぶりにゆっくりと温泉につかりました。翌日はどーっと疲れが出ましたが身体がほぐれ楽になりました。
このところ緊張がつづき身体が固くなり精神的にもいらいらして、きりきりと気の立つ事が多かった事をしみじみと反省しました。

そして、いじめをしたり、いじめられて苦しんで自殺する子供たちにもその思いをめぐらしました。今の子供達にはほっと気持ちのくつろぐ時がとても少ないように思います。
勉強勉強と勉強を強いられている子供達にいつも同情しています。

なぜなら私達の子供時代はあまり勉強しませんでしたし、学校は友達に会いに遊びにゆくところの気分だったからです。
放課後は校庭に残ってドッヂボールをしたり、その頃はやったグンカンプレーという陣とりごっこみたいな遊びに興じたものです。
そのあとは三々五々家路に近い人たちと組んで石けりをしながら帰りました。
そして一家そろって夕食を食べる頃は、もう居ねむりなどして早く寝てしまいました。

私は五年生の時、転校してけっこういじめには会いました。遠まきにして知らん顔をされたり、誰一人話しかけてもくれなかったり、意地の悪い子は何人もいました。
前の学校がなつかしくて転校したあともよく遊びに行って、70年すぎた今でも仲よくつきあっている人がいます。
「幼友達」「同級生」は友人の中でも特別なつかしく、心の温まる存在です。

それなのに今は「いじめた」「いじめられた」という事ばかりが報じられるのは何故でしょう。その理由の一番は学校教育だと思います。

私の女学校は府立第六高女(現三田高校)ですが、当時の校長丸山丈作先生の教育はすばらしかったと今でも心から感謝しています。
先生は「第一は健康である事」という主義で「歩く」事を奨励されました。

体育の時間の半分は一面、鏡のはりめぐられた体育館の中、音楽につれてひたすら歩く事でした。自分の姿をみて姿勢を正し美しくさっさっと歩く練習をしたおかげで、今でも姿勢がよいと周囲の人からほめられます。
「勉強は学校にいる間にしっかりと勉強する事。自宅へ帰ったら勉強はする必要はありません」「家事を手伝ったり本を読んだり自分の時間を大切に使いなさい」と丸山先生は云われました。

朝から晩まで強制的に勉強させられた子供は勉強が嫌いになるでしょう。
運動をしたり子供達同士でぶつかりあって遊んだりしない子供は身体が弱くなります。
心のこもった手づくりの夕食を夕食時にたべない子供は好き嫌いが多くなり健康をそこねます。野菜をたべず、手軽にラーメンやハンバーガー・フライドチキンばかりたべる事は肥満の元。

私達子供の頃は水しか手に入りませんから、ジュースなど飲んだ事もなく肥満児は一人もいませんでした。今、肥満児がふえているのは手のとどくところに甘いジュース、コーラがあり糖分のとりすぎになっているからだと云われます。

ベストセラーとなった「病気にならない生き方」を出版されたドクター新谷弘実先生は「今の青少年は清涼飲料水を一日五本飲んでいると云われる。一本につき30グラムの砂糖が入っているから150グラム。これ程飲んだら哺乳動物の頭は狂って了う。

血液のバランスが崩れて‹キレる›精神状態になる可能性が多い」と語られています。
とてもこわいお話ではないでしょうか。

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お幸せにお正月を迎えられた事と存じます。

例年ですと私は御殿場の山荘へゆき、真っ白な富士山を仰ぎながらお正月を迎えましたが、今年は寒いので自宅で過ごしました。

家から歩いて15分の品川神社へ初詣に行きました。品川神社は第一京浜に面した新東京八名勝に入る神社だけに長い長い行列が出来ていました。

男性は皆暗い色のジャンパー姿、着物を着ている美しい女性はみあたらず、うきうきしたお正月気分はただよっていませんでした。
おみくじは「大吉」と出ました。

家人、友人と共にお屠蘇を祝い、色とりどり沢山造ったおせちをいただきながらシャンペン1本あけましたが、新しい年を迎えたというわくわくする気分にならなかったのは私が年をとったからでしょう。

テレビをみていてもおふり袖姿の女性が多かったのはお正月より成人式のようでした。
寒い時期だから仕方ないと思いますが、ふり袖と白いふわふわの毛皮のショールは似合いませんね。
せっかくの着物のよさが毛皮で覆われて了い、着物の美しさはまづえり元にあるのだとしみじみ思いました。

ドレスを着ている人は黒が多いですね。
着物の留め袖は黒地ですが、すそ模様があるからお祝いの席の着物ともされています。
ヨーロッパではお祝いの席、特に結婚披露パーティーには決して黒いドレスは着ません。
黒いドレスは喪服とされているからです。
昔は未亡人になった女性は1年、3年、ある人は死ぬまで喪服で過ごす人もいました。

そのようなしきたりがあるので祝日に黒は着ないのです。
結婚披露パーティーに出席する日本女性が黒いドレスを着ているのをよく目にします。
その度に私は先輩や美容師がなぜ注意してあげないのか不思議に思います。

新しい門出に立つ新郎新婦のお祝いの席に喪服で出席する事は「彼等の幸せを祈らない」と誤解される事があると知ってほしいです。

2007年、身につけるものも心も明るく生きたいと願っております。

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